Last update:2022,FEB,12

自由と革命の時代

ウィーン体制とラテンアメリカ諸国の独立

あらすじ

big5
「ナポレオンがライプツィヒの戦いに敗北して退位した後、勝利したイギリス、オーストリアなどの連合国はウィーンに集まって、今後のヨーロッパについて会議を行いました。これがウィーン会議ですね。会議の主催はオーストリアの外相メッテルニヒ(この年42歳)です。そして、ウィーン会議は敗戦国であるフランスを代表する外相・タレーランが提唱した「正統主義」という考え方で、戦後の秩序が築かれていきました。ここでいう「正統主義」とは、フランス革命以前のヨーロッパ世界に戻す、という考え方ですね。それに加えて「勢力均衡」も考え方に取り入れられ、特定の国に力が偏りすぎないようにする、というものでした。これが、ナポレオン時代のヨーロッパ世界を維持する基本的な考え方になりました。」
名もなきOL
「そうなると、フランス革命で始まった自由と平等を掲げる近代市民国家からは離れてしまいますね。」
big5
「ところが、歴史はそうはならなかったんです。メッテルニヒの主導で敷かれたウィーン体制ですが、フランス革命から始まり、ナポレオン時代でヨーロッパ諸国に広まった「自由」と「平等」を求める近代市民国家を求める声は日増しに強くなっていったんです。ウィーン体制初期は各地で起こる暴動や運動は弾圧される一方で、ヨーロッパの植民地であったラテンアメリカでは次々と独立国が誕生していきました。現在のラテンアメリカ諸国は、だいたいこの時期に誕生しているんです。」
名もなきOL
「ラテンアメリカの歴史って、私はほとんど知らないんですけど、これくらいの時期に誕生したんですね。」
big5
「ナポレオンは敗退しましたが、革命の息吹はこの時代に各地で盛んになるんです。ウィーン体制の時代は、小さな事件が数多く起きるので用語が混乱しやすいのですが、自由主義・国民主義運動と、それを弾圧するウィーン体制維持イベントの話を常にセットにして読んでいくと、読み解きやすくなります。さて、まずは年表から始めて、ウィーン体制の成立とウィーン体制の前半部分を見ていきましょう。」

自由主義・民族主義運動 ウィーン体制維持イベント
1815年6月 ウィーン議定書調印
1815年9月 アレクサンドル1世の提唱で神聖同盟成立
1815年11月 オーストリア・プロイセン・ロシア・イギリスの四国同盟成立
1816年 南米のアルゼンチンがスペインから独立
1817年 ドイツでブルシェンシャフト運動が盛んになる
1818年 サン・マルティンがアンデスを超えてチリに侵攻し、チリ独立を宣言 四国同盟にフランスが加わり五国同盟となる
1819年 カールスバードの決議
1820年 スペイン立憲革命
カルボナリの反乱勃発
1821年 ギリシア独立戦争 開戦 オーストリア軍がカルボナリの反乱を鎮圧
1822年 グアヤキルでシモン・ボリバルとサン・マルティンが会談するも決裂 神聖同盟がヴェローナ会議でフランス軍のスペイン派遣を決定
イギリスが五国同盟から脱退
1823年 アメリカがモンロー教書を発表 フランス軍がスペイン立憲革命を鎮圧
1824年 イギリス詩人・バイロンがギリシア独立戦争に参戦
1825年 ロシアでデカブリストの乱
1830年 フランスで七月革命 勃発
ベルギーがオランダから独立
ポーランドで11月蜂起
1831年 イタリア反乱(中部イタリア反乱)
マッツィーニが「青年イタリア」を結成
ロシアがポーランド反乱を鎮圧
オーストリアがイタリア反乱を鎮圧
1848年 フランスで二月革命 勃発
オーストリアでウィーン三月革命 勃発
プロイセンでベルリン三月革命 勃発 フランクフルト国民議会招集
ミラノ蜂起 サルデーニャがオーストリアに宣戦布告
ベーメン独立運動
ハンガリー民族運動
オーストリアがベーメン独立運動を武力で鎮圧
1849年 ローマ共和国成立 オーストリア・ロシア連合軍がハンガリー民族運動を武力で鎮圧
オーストリアがサルデーニャとミラノを破る
フランスがローマ共和国を破る

ウィーン体制の成立

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「あらすじで見たように、ウィーン体制はフランス革命前の状態に戻す、という基本原則で作られました。まずは、ウィーン議定書で定められた主要国の状況と変化について見てみましょう。まずは敗戦国であるフランスですね。フランスは革命の開始とナポレオン時代の当事国でありながら、扱いがたいへん寛大でした。まず、ナポレオンが切り取った領土や各地の傀儡国家はすべて解体されましたが、フランス本土はそのままで領土の割譲は無し。フランス王としてルイ16世の弟であるルイ18世がフランス王に即位し、ブルボン朝が復活しました。」
名もなきOL
「本当に、「フランス革命勃発前の状態」に戻ったわけですね。でも、敗戦国のはずなのにこの内容って、タレーランってかなりの交渉上手なんですね。」
big5
「そうなんです。ナポレオンの影に隠れがちなのですが、タレーランは交渉上手の名外交官、と評価されることが多いですね。ウィーン会議で戦勝国となった代表者の中には
「フランスは革命とナポレオンのせいで、甚大な被害をヨーロッパにもたらしたんだ。フランスは大幅に領土を縮小し、多額の賠償金も支払うべきだ。」
という人もいましたが、タレーランは
「悪いのはフランスではなく革命。敗れたのも革命。フランスも革命の被害者なんです。なので、革命前の理想的案状態に戻りましょうよ」
という理論で説得し、その考え方を会議の基本原則に落ち着かせたわけですね。ナポレオンとかのわかりやすい英雄とはまったく異なるタイプの偉人だと思います。
さて、次にイギリス。イギリスは旧オランダの植民地であったインド南西のセイロン島と南アフリカのケープ植民地を獲得しました。他に、ナポレオンがエジプト遠征の際に占領した地中海のマルタ島を獲得しています。特に、ケープ植民地は今後のアフリカ植民地政策の拠点となるので、たいへん重要ですね。」
名もなきOL
「やっぱり、イギリスって外交上手というか、ちゃっかりしてますね。ウィーン会議でも、おいしい所はしっかり持って行ってますね。」

Congresso di Vienna
ウィーン会議の様子 画:ジャン=バティスト・イザベイ 1815年作成

big5
「次にプロイセン。まず、ナポレオンが作ったワルシャワ大公国は解体となったので、その一部をポズナン大公国として、プロイセン王が大公を兼ねました。また、ザクセン王国の北半分やラインラント方面などに領土を拡大しました。」
名もなきOL
「ナポレオンにかなり派手に負けてしまったプロイセンでしたけど、結果的には領土を拡大したんですね。」
big5
「そしてオーストリア。ナポレオンに奪われた北イタリア、ヴェネツィアをロンバルド=ヴェネト王国とし、国王はオーストリア皇帝が兼ねる、という形で領土を拡大。そして、旧神聖ローマ帝国の大部分にあたる35の国と4つの自由都市でドイツ連邦というまとまりを作り、オーストリア皇帝を議長とする、という形式で神聖ローマ帝国っぽい組織が新たにできました。」
名もなきOL
「ドイツ連邦ってちょっと微妙なかんじですね。神聖ローマ帝国っぽい、っていうのも正統主義の影響なんでしょうかね。」
big5
「次にロシア。まず、ナポレオンの命令で攻め込んだスウェーデンから奪ったフィンランドをフィンランド大公国とし、大公はロシア皇帝が兼ねることで事実上のロシア領化。それから、解体されたワルシャワ大公国の大部分はポーランド立憲王国とし、国王はロシア皇帝が兼ねることでこれも事実上ロシア領化。最後に、どさくさに紛れてオスマン帝国から奪い取っていたモルダヴィアの北のベッサラビアをロシア領と認められました。こうして、ロシアはフィンランドとポーランドの大部分を支配することに成功したので、これも勢力拡大ですね。」
名もなきOL
「ナポレオン時代のどさくさに紛れてオスマン帝国から領土を切り取るなんて、ロシアもちゃっかりしてますね。・・・というか、そうでないと生き残れないのが世の中なのかな。」
big5
「さて、ウィーン体制には、体制維持のための組織が2つ作られました。それは、神聖同盟四国同盟です。まず、神聖同盟から説明しますね。神聖同盟は、ロシアのアレクサンデル1世が提唱したキリスト教国をまとめた緩やかな集まりです。ただ、キリスト教国ではないオスマン帝国は加わりませんでしたし、イギリスも不参加。ちなみに「神聖」という名前がついていますが、ローマ教皇は不参加、という少し変わった同盟です。特に、イギリスは不参加、という点は四国同盟と異なる点なので重要ですね。ただ、参加国が多かったのでウィーン体制の平和維持機関としては意外と機能することになります。現在の国連のような組織ですね。」
名もなきOL
「なるほど。国際的な会議を持つことで、いろいろな問題を話し合う、というわけですね。これは、平和を守るために良い取り組みなんじゃないか、と思います。」
big5
「もう一つの四国同盟は、イギリスが提案したものです。四国とはイギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアの4か国で連携し、ウィーン体制を維持するために協力しましょう、という大義名分を掲げていました。これは現代のG7みたいなものですね。当初は、フランスをあえて外すことでイギリスの長年のライバルであるフランスを抑え込むことを狙っていましたが、フランスはブルボン王家のもとで保守的な国に戻ったため、1818年にはフランスが加わって五国同盟となりました。
こうしてみると、ウィーン体制は国連ができる約150年前にできた「ヨーロッパ限定国連」みたいな組織だった、と考えると理解しやすくなると思います。この体制で、革命で荒れそうになった社会を元に戻そうとしたわけですね。」


自由主義・民族主義の高まりと抑圧

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「さて、フランス革命前の世界と秩序を取り戻そうとするウィーン体制ですが、フランス革命で爆発し、ナポレオンがヨーロッパに拡散した自由主義・民族主義の思想は、ヨーロッパ諸国で少しずつ広まっていました。最初にそれが表面化したのはドイツです。ナポレオンに敗北した後、プロイセンのフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』で熱く語ったように、ドイツ民族として誇り、さらにはドイツ民族の国を形成するという思想が大学生などの若い世代に広まっていきました。学生らはブルシェンシャフト(学生組合とか学生同盟と訳される。ドイツ語はBurshenshaftでBruschenは「少年たちの」 shaftは「集合体」)と呼ばれる団体を作って、自由主義改革やドイツの統一を考えるようになったわけです。」
名もなきOL
「ドイツ統一、っていうのは大きな話ですよね。神聖ローマ帝国だと、統一されているとは言えないですし、ウィーン議定書で作られたドイツ連邦も、結局は統一された国家じゃないですしね。」
big5
「そうなんです。ウィーン体制は、ドイツ統一には程遠い姿なんです。それを実現しようと、大学生たちが活動を始めたわけですね。そんな中、1817年にルターの宗教改革300年祭イベントとしてルター縁のヴァルトブルク城に学生たちが集合し、自由主義ドイツ、統一ドイツを訴えるイベントが発生しました。メッテルニヒは、ウィーン体制を揺るがしかねないこの動きを警戒します。2年後の1819年にブルシェンシャフトの過激派が保守派をして憎まれていた劇作家のコッツェブーを暗殺するという事件が起きると、メッテルニヒは早速潰しにかかりました。メッテルニヒはドイツ連邦を構成する国のうち、主要10か国だけをチェコのカールスバートに集めて、ブルシェンシャフトを弾圧する法案を作ります。具体的には、学生が秘密結社を作ることを禁止したり、書物の検閲制度を作ったり、さらには革命を起こそうとする陰謀を捜査する委員会を作る、などです。この決議を、集まった場所の名前をとって「カールスバートの決議」と呼びます。結果、ブルシェンシャフト運動は徹底的に弾圧されて収束していきました。」
名もなきOL
「なるほど。「ブルシェンシャフト運動(学生運動)←カールスバート決議で弾圧」という関係ですね。」
big5
「ドイツの革命の動きを未然に防いで一息ついたメッテルニヒでしたが、次はスペインとイタリアで問題が起きます。まずはスペインです。ナポレオン時代の半島戦争でスペインが混乱している間、スペイン領ラテンアメリカの領土が次々と独立していきました。そこで、スペイン王フェルナンド7世は独立政府を鎮圧するために、スペイン南部の軍港・カディスに招集。そこから軍隊を出港させるつもりだったのですが、なんとリエゴ(この年35歳)率いる軍の一部が反乱。しかも、反乱者たちは立憲王政をうたうカディス憲法の復活を要求しました。」

Rafael Riego
リエゴ肖像画 作者:不明 作成年代:不明

名もなきOL
「カディス憲法?」
big5
「カディス憲法は、ナポレオン時代の半島戦争の最中に制定された、立憲王政をうたうスペインの憲法です。1812年、このカディスの街に置かれた議会で決議されました。フェルナンド7世は当初はこれを認めていたものの、1814年にナポレオンが敗北すると、手のひらを返してカディス憲法を否定。スペインを絶対王政に逆戻りさせます。」
名もなきOL
「それは、自由主義者の反感をかったことでしょうね。」
big5
「この動きはスペイン全土に拡大したため、フェルナンド7世はやむを得ずカディス憲法を承認。スペインは、一時的に立憲王政の国となりました。これを、スペイン立憲革命といいます。」
名もなきOL
「一時的、ということは長続きはしなかったんですね?」
big5
「スペイン立憲革命もフランス革命と同様に、次第に急進化していったんです。フランス革命の二の舞を演じることを恐れたフェルナンド7世は、神聖同盟の会議で救援を要請。1823年にフランス軍がスペインに侵入し、革命派を武力で鎮圧させたんです。立憲王政スペインはわずか3年で幕を閉じたわけですね。
さて、次はイタリアのカルボナリの反乱ですね。まず、カルボナリというのは、イタリアのオーストリアからの独立を目指す秘密結社です。カルボナリとは「炭焼き人」という意味なので、結社の存在を隠すためのコードネームのようなものですね。この頃、カルボナリのメンバーはイタリア各地に広がっていたそうです。」
名もなきOL
「カルボナリも反乱を起こしたんですか?」
big5
「まず、1820年7月にナポリ王国のカルボナリが武装蜂起。国王はカルボナリの要求を認めてカディス憲法とほぼ同じ内容の憲法を承認します。しかし、メッテルニヒはこの動きを認めません。年が明けて1821年3月にオーストリア軍が侵攻してカルボナリを鎮圧します。しかし、これを見たイタリア北部のトリノでカルボナリが武装蜂起。オーストリアからの独立を掲げて新政権を立てますが、これもオーストリア軍に攻撃されて失敗。こうしてカルボナリの反乱は、1821年には完全に鎮圧されました。
この一連のカルボナリによる決起の詳細は、「詳細篇 カルボナリの活動」で説明していますので、是非見てみてくださいね。」
名もなきOL
「ウィーン体制が発足してまだ間がないのに、いろいろと変動が大きいですね。でも、ウィーン体制はいちおう維持されたんですね。」
big5
「維持はされたのですが、諸国の連携にはヒビが入りました。特に、スペインに対する対処は五国同盟諸国で意見が分かれたんです。フランス、オーストリア、ロシアの絶対王政三国はスペインの立憲王政化を認めなかったのですが、元々議会の権力が強いイギリスはむしろ立憲王政スペインを支持。これに納得できないイギリスは五国同盟を脱退します。」
名もなきOL
「五国同盟って、元は自分が言い出して作った四国同盟だったのにね・・・」


ギリシア独立戦争とデカブリストの乱

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「さて、舞台は少し東に移ってオスマン帝国領・ギリシア。ウィーン会議の際にウィーンに滞在し、フランス革命に影響されたギリシア人青年らが中心になって、1821年にギリシア独立戦争を起こしました。」
名もなきOL
「ギリシア!久しぶりですね。古代からしばらく聞かなかった名前が久々に出てきたわ。」
big5
「もしこれが中世だったら、オスマン帝国に対する反乱ということで、ヨーロッパ諸国も支援したことでしょう。ただ、当時はウィーン体制の時代でした。旧秩序の維持がウィーン体制です。メッテルニヒも、神聖同盟諸国も、ギリシア独立に反対します。そのため、独立軍は苦戦することになりますが、ヨーロッパ諸国ではギリシアに同情する声が強くなっていきました。特に、1824年にイギリスの人気詩人・バイロン(36歳)が義勇軍として参加すると、ヨーロッパ諸国にギリシア支援の声が強くなってきました。ちなみに、バイロンはギリシアに到着した後、一度も戦闘に参加することなく病気で亡くなっています。

Lord Byron in Albanian dress
アルバニア風装束のバイロン 画:トマス・フィリップス 作成:1835年頃

big5
「年が明けて1825年12月14日、ロシアのアレクサンドル1世が亡くなりました(48歳になる年)。後継者となったのは、弟のニコライ1世(29歳)だったのですが、これがきっかけとなって、フランス革命の影響を受けた青年将校らが反乱を起こしました。ロシア語で12月を「デカーブリ」というので、この反乱に加わった人々を「デカブリスト(十二月党員)」と呼び、この事件をデカブリストの乱、と呼んでいます。デカブリストの乱はあっさり鎮圧されてしまうのですが、これで、ドイツ、スペイン、イタリア、そしてロシアの各国でウィーン体制を揺るがす事件が起きたのは、当時の世相を反映していますね。」
名もなきOL
「ギリシア独立戦争はどうなったんですか?」
big5
「ニコライ1世はメッテルニヒとあまり仲が良くなった、ということもあり、ヨーロッパ諸国の態度が変わりました。オーストリアのメッテルニヒはウィーン体制の維持を主張したのですが、イギリス、フランス、ロシアはギリシア独立を支援して自分たちも利権を得ることを優先し、イギリス・フランス・ロシアの三国が独立軍を直接支援することになったんです。1829年、オスマン帝国はギリシアの自治を認め、さらに翌年の1830年にはギリシアが独立しました。

ちなみに、この時オスマン帝国側で活躍したのが、実力者であるエジプト総督・ムハンマド・アリーです。ムハンマド・アリーはやがてエジプトの支配者としてオスマン帝国から独立することになるのですが、これはまた別の機会に詳しく見ていくことにしましょう。」


ラテンアメリカ諸国の独立ラッシュ

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「ヨーロッパがフランス革命⇒ナポレオン時代⇒ウィーン体制⇒ウィーン体制への反発、という大きな時代の波に洗われている中、ヨーロッパ諸国の植民地となっていたラテンアメリカで、次々と独立国が誕生していきました。」
名もなきOL
「そうなんですね。でも、なんでこの時期に独立が相次いだんですか?」
big5
「一番の要因は、ナポレオンによってスペイン本国がほぼ征服されたことでしょうね。もちろん、スペインは完全に征服されたわけでなく、半島戦争と呼ばれるゲリラ戦を展開していたわけですが、その間は植民地の統治どころではなかったわけですね。」
名もなきOL
「そうですよね。本国の存続が危ぶまれている時に、海を隔てた遠くの植民地のことまで手が回らなくなるのもうなずけますね。」
big5
「まずは、ラテンアメリカ諸国独立の年表から見ていきましょうか。」

ラテンアメリカ ヨーロッパ
1791年 ハイチで黒人奴隷の暴動が発生 ヴァレンヌ逃亡事件・ピルニッツ宣言・1791年憲法・立法議会成立
1798年 ハイチのトゥーサンが侵入してきたイギリス軍を撃退 ナポレオンがエジプト遠征開始
1800年 ハイチが独立を宣言 ナポレオンが第二次イタリア遠征開始
1803年 トゥーサンがフランスの奸計で捕えられ獄中死 ナポレオンが西ルイジアナをアメリカに売却
1804年 デサリーヌらがハイチ独立を宣言 フランス軍は撤退 ナポレオンがフランス皇帝に即位
1808年 スペイン反乱(半島戦争) 始まる
1810年 メキシコでイダルゴが武装蜂起するも失敗
1811年 パラグアイが共和国として独立
シモン・ボリバルらがベネズエラの独立を宣言
1812年 ベネズエラで大地震 スペイン軍により独立政府が崩壊 ナポレオンがロシア遠征を開始
1816年 ラプラタ連邦(アルゼンチン)が独立を宣言
1818年 サン・マルティンがアンデスを超えてチリに侵攻し、チリ独立を宣言 四国同盟にフランスが加わり五国同盟となる
1819年 シモン・ボリバルが大コロンビアの独立を宣言 カールスバードの決議
1820年 スペイン立憲革命
1821年 サン・マルティンがペルー独立を宣言
イトゥルビデがメキシコ独立を宣言
1822年 グアヤキルでシモン・ボリバルとサン・マルティンが会談するも決裂
ブラジルが独立を宣言
イギリス外相カニングがラテンアメリカへの不介入を宣言
1823年 アメリカがモンロー教書を発表
1824年 シモン・ボリバルがスペイン軍をアヤクチョの戦いで破る
ブラジルがアルゼンチンと領土問題で戦争開始
1825年 シモン・ボリバルがボリビアを解放して独立させる
1826年 パナマ会議でシモン・ボリバルがパン・アメリカ主義を提唱
1828年 イギリス仲介により、ウルグアイがブラジル・アルゼンチンの緩衝国として独立
1830年 シモン・ボリバルが死去し大コロンビアが分裂 ベネズエラ、エクアドルが分離独立


・ハイチ独立

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「まずはカリブ海に浮かぶ島・ハイチの独立から見ていきますか。ハイチの位置は、下の地図のとおり、キューバの東にある島の西側です。この島はエスパニョーラ島といい、コロンブスが探検航海の拠点とした島です。」


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「エスパニョーラ島はスペイン植民地として開発されましたが、1697年に大同盟戦争の講和条約であるレイスウェイク条約で、エスパニョーラ島の西半分はフランスに割譲されました。以後、ハイチはフランスの植民地となり、アフリカ大陸から黒人奴隷を大量に購入して砂糖のプランテーションを経営し、砂糖貿易でフランスに大きな富をもたらしていました。つまり、この時からハイチには多くの黒人が連れてこられて働かされたわけですね。」
名もなきOL
「悪名高い「黒人奴隷貿易」ですね。」
big5
「そんな中、1789年にフランス革命が勃発すると、ハイチにもその影響が及びます。1791年8月、黒人奴隷らが暴動を起こしたんです。黒人奴隷たちはプランテーション経営者や役所を襲撃し、フランス人が殺害されるという事態になります。しかし、当時のフランスは革命真っ最中です。黒人奴隷らの蜂起は、貴族と聖職者らの圧政と戦う自分たちの姿と重ねたのでしょう。革命政府は奴隷制の廃止を宣言し、ハイチの暴動を鎮圧しようとはしませんでした。この中で、ハイチの黒人奴隷の指導者となったのがトゥーサン・ルーヴェルチュールです。」
Toussaint L'Ouverture
トゥサン・ルーヴェルチュール 作成:1800年頃

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「トゥサンは1798年に干渉にやってきたイギリス軍を撃退し、1800年にはハイチの独立を宣言します。」
名もなきOL
「凄いですね。奴隷が反乱を起こして独立国を作るなんて、小説みたいな話ですね。」
big5
「しかし、ナポレオンはハイチの独立を認めようとはしませんでした。むしろ、ハイチ独立を潰すために遠征軍を送り込みます。遠征軍は慣れない熱帯気候に疫病、そしてトゥサンのゲリラ戦術で苦戦したので、謀略を用いることにしました。「トゥサンが引退する代わりに、フランスは奴隷制廃止を認める」という守る気がない約束をして、油断したトゥサンを捕らえます。トゥサンはフランスに連行され、拷問の果てに1803年4月7日に獄中で死去しました。」
名もなきOL
「ヒドイ!やり方が汚いです。」
big5
「トゥサンが死んだ後、部下であったデサリーヌがハイチの独立を指導し、フランス軍を駆逐して1804年1月1日、ハイチの独立を再び宣言しました。こうして、ハイチはラテンアメリカで最初の独立国、また最初の黒人独立国家となったわけです。ただ、独立後のハイチは極めて困難な道を歩むことになるのですが、その話はまた別の機会にしましょう。」

・パラグアイ独立

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「ハイチの独立はフランス革命の影響によるものですが、ここからはスペインの衰退に伴うラテンアメリカ諸国の独立ラッシュになります。1808年にナポレオンがスペインに侵攻し、泥沼のゲリラ戦となったスペイン反乱(半島戦争)が始まると、ラテンアメリカのスペイン植民地で次々と反乱の火の手が上がりました。最初に独立したのはラテンアメリカの中部に位置するパラグアイです。」



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「パラグアイの独立の話の前に、まずはラテンアメリカの歴史を語るうえで外せない用語を解説しておきます。まず、ラテンアメリカ独立を主導したのは、クリオーリョと呼ばれた、植民地生まれのスペイン人です。クリオーリョは植民地に入植してきたスペイン人の子孫で、法的にはスペイン本国のスペイン人と同格ですが、公務員や官僚になることができない、つまり政治面では差別を受けていました。ちなみに、スペイン本国の人はペニンスラール(半島生まれの人)と呼ばれますが、蔑称である「ガチュピン」という表現がよく使われたそうです。次にメスティーソ。メスティーソは、ヨーロッパ人とインディオの間に生まれた子のことです。大半は、スペイン人男性とインディオ女性の子です。メスティーソはクリオーリョから差別され、商人として活動することはできませんでした。そのため、プランテーション経営のヨーロッパ人に雇われることが多く、非支配層に属しています。他にはムラート(ヨーロッパ人と黒人の子)、サンボ(黒人とインディオの子)といった混血児を表現する言葉が多く出てきますね。クリオーリョ以外は非支配層に属しているのですが、このように人種的にかなり幅が広いのが特徴です。」
名もなきOL
「現代でも、中南米の政情が不安定なことが多いのは、こういう歴史に源流があるんですね。」
big5
「そのとおりです。さて、話をパラグアイ独立に戻しましょう。パラグアイは海に面していませんが、ラプラタ川を遡ったアスンシオンに植民地の拠点が設けられ、アスンシオンを中心に植民地として開発されてきました。ラテンメリカの例にもれず、クリオーリョらはペニンスラールから受ける差別に対してかなりの不満をため込んでいました。そんな中、ナポレオンがスペインに侵入したことを知ると、アスンシオンの独立派がスペイン人役人を追放して、1811年6月11日パラグアイ共和国として独立を宣言。南米大陸では最初の独立国となりました。」


・ベネズエラ独立とシモン・ボリバルの活動開始

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「1811年にはもう一つ、ラテンアメリカで重要な事件がありました。それは、ベネズエラ独立です。ベネズエラ独立を主導したのは、ミランダ(この年61歳)というクリオーリョだったのですが、ベネズエラ独立には「南アメリカ解放の父」と呼ばれるシモン・ボリバル(この年35歳)も参加していました。シモン・ボリバルもクリオーリョです。」

Bolivar Arturo Michelena
シモン・ボリバル 作成:1895年

big5
「1811年、先ほどのパラグアイ独立と同じ年ですね、ベネズエラは独立を宣言します。しかしタイミングが悪いことに、年が明けた1812年に中心都市カラカスを大地震が襲いました。」
名もなきOL
「そういえば、ハイチも最近大地震が起きてたいへんな状況になっていましたよね。このあたりも日本と同じで地震が多いエリアなのかな。」
big5
「この地震は物理的な損害だけでなく「独立は不吉であることを示しているんだ」という風評被害にも及び、ベネズエラは鎮圧にやってきたスペイン軍に抵抗する力を失ってしまいました。ミランダはスペインに降伏し、ベネズエラの独立はいったん挫折します。しかし、脱出したシモン・ボリバルは故郷のベネズエラ独立をあきらめず、数年後に逆襲に転じることになるのですが、それはまた後で述べます。」
名もなきOL
「シモン・ボリバルさんも凄く意志の強い人なんですね。青年イタリアのマッツィーニさんと似た感じがします。」

・サン・マルティンの独立戦争

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「さて、ここからはウィーン体制後のラテンアメリカ独立ラッシュの話になります。ここまでに独立したのは、カリブ海の配置、南アメリカ大陸ではパラグアイの2国ですね。独立ラッシュはここからが本番になります。主な登場人物は、失敗したベネズエラ独立に登場したシモン・ボリバル、そして南部諸国を独立させたサン・マルティンです。」

Jose de San Martin (retrato, c.1828)
サン・マルティン肖像画  作成:1829年 or 1827年

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「サン・マルティンはアルゼンチン生まれのクリオーリョで、スペイン本国で軍人としての道を歩んでいました。サン・マルティンの故郷であるアルゼンチンは、都市ブエノスアイレスを中心に発展し、財力と自衛のための実力を備えたクリオーリョ達は1810年にスペイン副王(総督)を追放し、スペインに対して独立戦争を挑みました。サン・マルティンは独立軍に身を投じて活躍します。その結果、1816年にアルゼンチンは独立を宣言しました(当時の国名は「ラプラタ連邦」。アルゼンチンが国名になるのは1862年」)。
しかし、サン・マルティンの活動はアルゼンチンの独立だけでは終わりませんでした。アルゼンチンの独立を保つためには、南アメリカのスペイン植民地を打倒する、特に支配拠点であるスペインのリマを落とすことが必要だと考えました。アルゼンチン新政府はサン・マルティンを司令官に任命し、遠征に出陣。軍隊がアンデス山脈を越える、という難行を乗り越えてチリに侵攻し、スペイン軍を破って1818年にチリを独立させました。」
名もなきOL
「アンデス山脈を越える、ってそれだけでも大変なのに、武器やら大砲やら食料やら、たくさん荷物を運んで山越えなんて、きっとものすごい大変なことだったんでしょうね。」
big5
「チリを解放したサン・マルティンは、目標であるペルーのリマに侵攻開始。1821年にリマを占領してペルーの独立を宣言しました。当初の遠征目標を達成したわけですね。サン・マルティンはペルーの護国卿に就任したのですが、ここで問題が発生します。」
名もなきOL
「どんな問題ですか?」
big5
「部下の将軍達が、ペルー人に対して傲岸不遜な態度をとるようになり、ペルー人との関係が悪化していったんです。この状況を利用して、山岳部に逃げ込んでいたスペイン軍残党が反撃に転じたために、サン・マルティンだけではペルーの独立を維持することが難しくなってきたんです。」
名もなきOL
「部下の横柄な態度が原因だったとは・・。サン・マルティンさんも大変ですね。」
big5
「困ったサン・マルティンは、ある人物に救援を頼むことにします。その人物が、シモン・ボリバルです。この時、シモン・ボリバルは大コロンビアという、現在のコロンビア、ベネズエラ、エクアドルに及ぶ大きな地域をスペインから独立させることに成功しいたんです。この話は、少し後にもう一度登場します。両者は1822年にグアヤキルで会見を行います。」
名もなきOL
「北の英雄(シモン・ボリバル(この年39歳))と南の英雄(サン・マルティン(この年44歳))がついに出会うんですね。結果はどうなったんですか?」
big5
決裂しました。理由はいろいろあるみたいなのですが、独立後の国家運営の方針だ合わなかったことが、決裂の主要因みたいです。シモン・ボリバルは共和政を考えていたのに対し、サン・マルティンは君主政を考えており、両者は折り合いをつけられなかった、ということみたいですね。」
名もなきOL
「君主政と共和政では、だいぶ違いますもんね。独立を目指すことでは一致しても、その後の運営で敵対するなら共闘する意味は疑問ですよね。政治って難しいな。。」
big5
「そして、サン・マルティンはペルーの統治を諦めてしまいます。護国卿を辞任すると、母国のアルゼンチンに帰っていきました。結局、ペルーの独立はシモン・ボリバルが継承し、1824年にアヤクチョの戦いでスペイン軍を破り、ペルーの独立は守られることになりました。
さて、次は少し時間を巻き戻して、シモン・ボリバルの独立戦争の話に移りましょう。」


・シモン・ボリバルの独立戦争

big5
「ベネズエラ独立に失敗したシモン・ボリバルは、イギリス領ジャマイカに逃れるとイギリスの支援を求めたのですが、イギリスは返答しませんでした。代わりに、独立して間もないハイチに協力を求めたところ、「独立後に黒人奴隷を解放するのであれば、協力する」という条件でハイチの協力を得ることに成功。シモン・ボリバルは1816年にベネズエラに上陸してスペイン軍に独立戦争を挑みます。この戦争は一進一退の激しい戦いになりましたが、ついにスペイン軍を打倒することに成功。1819年(この年36歳)、現在のベネズエラ、コロンビア、パナマ、エクアドルにまたがる「大コロンビア共和国」の独立を宣言し、自らは大統領に就任しました。」


大コロンビアの領土は、現在のコロンビアに加えてベネズエラ、エクアドル、パナマも含む広大な国だった

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「この時点で、大コロンビア領の一部はまだスペイン領だったので、シモン・ボリバルの独立戦争はまだ続きます。残存するスペイン軍の拠点を攻略しつつ、シモン・ボリバルは次の目標をペルーに定めました。そんな折、ペルーはアルゼンチンのサン・マルティンによって解放される、というニュースが飛び込んできます。さらに、サン・マルティンから会談を申し込まれ、先ほど出てきたグアヤキル会談に至るわけです。」

Guayaquil LaRotonda Bolivar SanMartin.JPG
CC BY-SA 3.0, Link

エクアドルのグアヤキル会談のモニュメント

名もなきOL
「なるほど。ラテンアメリカ諸国のほとんどは、この2人が独立を主導したわけですね。確かにヒーローですね、この2人は。」
big5
「ただ、グアヤキル会談は先ほど述べたように決裂してしまいました。シモン・ボリバルはサン・マルティンの後を継いでペルーのスペイン軍残党と戦い、1824年にアヤクチョの戦いで大勝利を収め、ペルーの独立を確実なものとしました。さらに、翌年の1825年にはペルー南東のボリビアに侵攻してスペイン軍を打倒し、ボリビアも独立させました。ボリビアの名前は、シモン・ボリバルにちなんで命名されたんですよ。」
名もなきOL
「シモン・ボリバルさん、凄いですね。まさに「南米解放の父」ですね。」
big5
「ボリビアの独立で、南アメリカ大陸のほぼすべてが独立を達成することになりました。厳密には、北東部のギアナはイギリス・フランス・オランダの植民地が残っていたのですが、大部分が独立したことは事実です。1826年、シモン・ボリバル(この年43歳)はパナマ会議を開催しました。出席国は、大コロンビア、ペルー、メキシコ、中央アメリカ連邦(現在のグアテマラなど中米諸国)です。」
名もなきOL
「あれ?南側の国が参加してないですね。」
big5
「はい、そうなんです。アルゼンチン、チリ、ペルー、ブラジルなどシモン・ボリバルが直接関与してない独立国は、シモン・ボリバルの影響力が拡大するのを恐れて、出席を拒否しました。パラグアイは独自の鎖国政策を敷いていたので、そもそも招待されませんでした。そのため、シモン・ボリバルが想定していたほど、大きなラテンアメリカ諸国の相互連携は実現できませんでしたが、彼のこの考えはパン=アメリカ主義として、もうしばらくした後にアメリカ合衆国がリーダーとなって実現されることになります。」
名もなきOL
「新興国同士の連携って重要だと思うんですけど、誰がリーダーになるかの主導権争いでモメそうですよね。やっぱり、ひと際飛び抜けたリーダーがいないと、まとまらないものなのかな。」
big5
「そうですね。政治の難しいところですね。さて、その後のシモン・ボリバルと大コロンビアですが、内部対立を生じて分裂、という結果になってしまいました。原因はいろいろあるのですが、大きな要因の一つはカウディーリョと呼ばれる、大地主達の対立が挙げられます。カウディーリョは戦国大名みたいなものですね。カウディーリョ達は私兵を雇って武装し、シモン・ボリバルと独立戦争を戦って富と名声を獲得したのですが、独立戦争が終わると、今度はカウディーリョ同士で権力争いが行われるようになったんです。大コロンビア共和国は、シモン・ボリバルが独立させた国ですが、各地のクリオーリョの連帯感はあまりありませんでした。そのため、各地のクリオーリョは自分の権益拡大を優先し始め、大コロンビア共和国はどんどん分裂していきます。シモン・ボリバルはこの流れを止めることができず、1830年12月17日に57歳で死去。ベネズエラとエクアドルは大コロンビアから分離独立し、それぞれの道を歩むこととなったわけです。」

・メキシコ独立

big5
「さて、次は中米の大国・メキシコの独立の話です。メキシコも長い間スペインに支配されていましたが、ナポレオンによるスペイン侵攻をきっかけに、独立の機運が高まります。最初に動いたのはクリオーリョの神父・イダルゴです。1810年9月16日(この年57歳)、信者たちに武装蜂起を呼び掛けて反乱を起こしました。イダルゴの反乱は失敗し、イダルゴは捕らえられて処刑されるのですが、イダルゴは「メキシコ独立の父」とされ、9月16日はメキシコの独立記念日とされています。」

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CC 表示-継承 3.0, リンク


イダルゴ像

big5
「イダルゴの死により、独立運動は一時的に抑圧されたのですが、1820年にスペイン立憲革命が勃発すると、メキシコ駐留軍の指揮官であったイドゥルビデが富裕なクリオーリョを味方に付けて1821年に独立を宣言。さらにイドゥルビデは皇帝・アグスティン1世を名乗り、立憲君主政を樹立しました。」
名もなきOL
「メキシコは、他と違って派遣されていたスペイン人が本国の混乱に乗じて独立したんですね。これは、自由を求めた革命というよりも、イドゥルビデさん個人の欲望のための独立に見えますね。」
big5
「そうですね。イドゥルビデではなく、イダルゴがメキシコ建国の父と言われるのも、そういう事情を反映していると思います。実際、イドゥルビデは1823年には議会とケンカして追放されています。ただ、この事件はもっと重要な別のイベントの原因となりました。それは、イギリスのカニング外交とアメリカのモンロー教書です。まず、カニング外交から見ていきましょう。
1822年、スペインは神聖同盟の会議の席で、続出するラテンアメリカ諸国の独立に対し、干渉して独立を鎮圧することを提案しました。メッテルニヒらもこれに賛成するのですが、神聖同盟に加わっていないイギリスはこの考えに反対します。というのも、当時のイギリスはラテンアメリカ諸国を、イギリス産工業製品の市場として重要視していたため、ラテンアメリカ諸国は独立してもらった方が、イギリスには都合がよかったんです。時のイギリス外相カニング(この年52歳)は、イギリスはラテンアメリカ諸国の独立に対して干渉しない旨を表明しました。さらに、アメリカ合衆国の第5代大統領・モンローは、年次の演説でラテンアメリカ諸国の独立に対して以下のように発表しました。その内容は
(1)アメリカ合衆国は、ヨーロッパの紛争には干渉しない。
(2)南北アメリカのこれ以上の植民地化を望まない。
(3)現在、独立に向かって動いている旧スペイン領に干渉することは、アメリカの平和に対する脅威とみなす

というものです。この内容はモンロー教書(Monroe Doctrine)と呼ばれています。要するに、スペインから次々と独立するラテンアメリカ諸国を支援する内容でした。五国同盟から脱退したイギリスは、モンロー教書を支持することを表明。かくしてイギリスはウィーン体制から脱退することになり、早くも揺らぎ始めるたわけですね。こうして、ラテンアメリカ諸国の独立は、ヨーロッパにとっては大西洋を隔てた海の向こうの話ではありますが、旧秩序の打破と自主独立の影響は少しずつ、ヨーロッパ諸国にも及んでいきました。」

・ブラジル独立とウルグアイ独立

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「さて、ラテンアメリカ独立ラッシュもこれで最後になります。まずはブラジルの独立です。ブラジルの独立は1822年ですが、その経緯はこれまで見てきたラテンアメリカ諸国の独立とはだいぶ毛色が異なるものでした。まず、それまでの経緯を簡単に振り返ってみましょう。まず、ブラジルはポルトガルの植民地でした。スペインではありません。ブラジルの状況が大きく変わったのは、1807年です。この年、フランスがポルトガルに侵攻して、リスボンはあっさり陥落。時の女王マリア1世と王族らは、植民地であるブラジルに避難しました。」
名もなきOL
「つまり、本国領土を失って、植民地に首都が移ったようなものですね。」
big5
「ナポレオンが敗北した後も、ポルトガル王室はしばらくブラジルに留まっていました。そうしているうちに、ブラジルは単なる植民地ではなくなってきたんです。国家も「ポルトガル・ブラジル連合王国」となり、首都はリオデジャネイロに定められました。こうなると、ポルトガルの本土はブラジルであり、ポルトガルはヨーロッパにある海外領土、のような印象を受けます。そんな中、1820年にスペイン立憲革命が勃発したことに関連して、ポルトガルでも自由主義革命が発生しました。時のポルトガル・ブラジル連合王国の国王であったジョアン6世は、ブラジルからポルトガルに移りましたが、息子のペドロはブラジルに残しました。この事態に、ブラジルの富裕層が心配し始めます。なぜかというと、ブラジルが元の「ポルトガル植民地」に逆戻りすることを恐れたんです。そこで、ブラジルの富裕層はペドロにブラジル残留とブラジルの独立を求めました。元々、ペドロは自由主義に共感している人物だったので、彼らの要請を受けてブラジルの独立を宣言。ブラジル皇帝ペドロ1世として即位したんです。」
名もなきOL
「なんだか珍しいケースですね。本国支配への反発、というのは確かにあるんでしょうけど・・・なんとも不思議な話ですね。」
big5
「こうして誕生したブラジル帝国ですが、1824年に南隣のアルゼンチンと、ラプラタ川流域の土地の帰属をめぐって戦争になります。この戦争は「シスプラティーナ戦争」と呼ばれ、ラテンアメリカ内で最初の本格的な戦争になりました。」
名もなきOL
「シスプラティーナ戦争の結果はどうなったんですか?」
big5
「1828年に、イギリスとフランスが調停することで和平が結ばれました。領土争いになって地域は、両国の緩衝国としてウルグアイとして独立することになり、いちおう決着します。これで、現在のラテンアメリカ諸国がほぼ出そろった、ということになりますね。」



big5
「というわけで、フランス革命からウィーン体制の時期に続いたラテンアメリカ諸国の独立について見てきました。ラテンアメリカの歴史は、日本にとっては馴染みが薄いこともあるので、あまり知名度がないのです。ただ、世界史の歴史の流れから見ると、まさに「自由と革命の時代」に誕生した国々だ、ということがわかります。そして、ラテンアメリカ諸国の独立は、ヨーロッパのウィーン体制にも少なくない影響を与えたわけですね。」


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